アダルトチルドレンということ

http://www.enpitu.ne.jp/usr6/60769/diary.html


ロナルド・レーガンさんとビル・クリントンさんの話は、こういった話題に関心のある方であれば耳タコなくらいよく聞く話だと思う(特にクリントンさんの幼少期の境遇については、多くのアダルトチルドレン関係の書籍で言及されている)。


一時期、この“アダルトチルドレン”という言葉と、真剣に対峙して生きていこうと考えていた時期がある。「自分はアダルトチルドレンなのだから、それを認めた上で、どうやって建設的に生きていけばよいのか」と。斉藤学さんや信田さよ子さんや西山明さんの本を読み漁り、ネットをくまなく調べ、“ミーティング”と呼ばれる集まりや自助グループの方々と交流を深めたりもしてみた。最初のうちは、「ああ、こんな想いで生きている人たちは自分だけじゃないんだ」と心強く思えたし、「みんな、色んな想いを胸に秘めて頑張って生きているのだな」と共感を抱くことができた。“アダルトチルドレン”という言葉と、その言葉に寄り集まっている皆に対して、温かい感情を持つことができた。


しかし、ミーティングに参加したり同じような境遇の人と交流を深めたり文献を読んだりしていくうちに、「なにかが違う」と感じるようになった。漠然とした反発心。それは、「傷を舐めあっていても発展性がない」ということ。「いくら過去をかえりみたところで、現在の自分は変わらない」ということ。そんなことに気付いてしまった。結局、アダルトチルドレンだろうが鬱傾向にあろうが身体的な問題があろうが、自殺できない以上生きていくしかないわけで、生きていくしかないのであれば、できるだけ楽しく幸せを感じて生きていきたい。背筋をしゃんと伸ばして、前を見据えて歩いていきたい。そう思った。


同じ失敗を二度と繰り返さないよう反省することは、非常に大切な作業だと思っている。その「反省」という意味に於いては、過去をかえりみることは、必要な作業だ。しかし、基本的なスタンスとしては、現在とその先を見据えて生きていきたい。徹底的に過去と向き合い、多大な歳月をかけて“過去の自分”を赦して(ゆるして)あげることがアダルトチルドレンの再生の道であるならば、私は、その歳月を現在と未来の自分に与えてあげたい。欠陥を内包したままでいいから、今とその先を大事にしていきたい。そう結論づけてからは、アダルトチルドレンという価値観(概念?)を、きっぱりと捨てた。


・・・批判的なエントリーになってしまったけれど、今までこの「アダルトチルドレン」という単語を知らなかった方で、私のエントリーや下記リンクのWikipediaの説明を見て、何か思い当たる節があった方。色々調べてみるのも一興かと思います。もしかしたら、何らかの助けになるかもしれませんからね。


アダルトチルドレン - Wikipedia