更新が止まったダイアリーに書かれた最期の言葉


http://d.hatena.ne.jp/I11/20060622/p3


ほとんどの言葉が、終わりを予期したわけではないものですね。なんだろ、なんだか書く時間がなかったり書きそびれてしまったりして、いつの間にか時間が過ぎていって、気づいた時には「いまさら更新するのも何だしなあ・・・」ってな感じでやめてしまうのだろうか。それとも、「もういいやっ」ってな感じでいきなり放ってしまうのだろうか。もう更新する気がないor更新するのが苦痛or忙しくて更新してられない、なんて時は、一言「やめます」と書くだけでいいんじゃないかなあと思うのだけれど。


この記事の最後に、管理者さんが

人生の終わりも、そのようなものなかもしれない。

その日が自分の最期の一日であることを知って死を迎える人は少ない。

多くの人が自分の人生に明日があることを信じて生き、そして死ぬ。

自分の死を自分自身で看取ることはできない。

それが自然なことなのだろうと思う。


とまとめられているけれど、みなさま、これ納得ですか?「ああ良い言葉だなあ」と思いますか?


死生観とか語りだしたら少々ウザがられそうで申し訳ないのだけれど、私は、世の中の全ての事象は、全て自分自身が作り出している幻かもしれないと思っている。古来中国のエピソードで「胡蝶の夢」とゆうのをご存知でしょうか。

荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。どちらともわからぬ、どちらでもかまわない。


この感覚に近い。浮世とも 夢幻とも 構わない といったところか。しかしとゆうべきか何とゆうべきか、夢幻であるなら、その夢幻を終わらせる作業とゆうのは、自分自身で行うしかないのではないだろうか。「死」とゆう概念を「その夢幻を終わらせる作業」であると捉えるのであれば、それは自分自身で意識して終わらせなければいけない。そして自分自身を最期まで看取らなければいけない。そう思っている。


人様の死生観など直接聞く機会なんてのはないに等しいので本当のところは分からないけれど、こうゆう考え方は極めて少数派なのだろうなあと想像している。